May 16, 2013

2013年4月summary

Sunrise20130407

Sunset20130409

Sakura20131

Sakura20132

Sakura20133

Jyomon

Kajyo2013spring

Fukinoto2013

5月も半ばになっていますが、学会による遠征も終え、さくらんぼの季節がまたやってきます。ブログ更新は遅れてしまい、今頃4月分です。ことしの桜は東京が異常に早かったのですが、山形はここ数年ではちょっとはやい普通の開花になりました。2006年から毎年桜の写真をのせていますが、あまり代わり映えしません。ことしは満開の時に雪になり、満開桜に雪がかぶった写真がとれました。これは500pxのstoriesにだしておきました。

春の朝焼け、夕焼けは淡白ですが、きれいになることもあります。

国宝となった縄文の女神が展示されました。舟形町の西ノ前遺跡から出土した縄文時代中期(今から4500年前)の土偶(どぐう)で、全身の高さは45センチもあります。
桜も散った夕方の霞城公園、最上義光像がきれいに映し出されました。ことしは最上義光没後400年、記念行事もあるようです。

春は山菜。例の、朝日町最上川八天橋のところに、たくさん"ふきのとう"がはえてました。ふきのとう味噌にして食べました。


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May 04, 2013

荘内日報に「お蓮」はじまる

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しばらくぶりの清河八郎です。小説の孵化場というブログで以前から清河八郎の記事を書いていて拝読していた鏡川伊一郎氏の連載小説がやっと始まった。ブログ上でこの連載小説の開始を知り、去年の暮れから荘内日報を購読開始していましたが、なかなか始まらず、なんと6ヵ月の準備を経て(連載小説を出すっていうのは、たぶんたいへんなことなんだ。)いま、5月1日から開始になりました。清河八郎とその仲間たち、総登場でしょう。さっそく安積五郎君がでてきたぞ!お蓮に関する基本的事項はこの文章(幕末に咲いた華 ~清河 蓮 -清河八郎の妻-)を参照してください。

著者のお言葉「清河八郎の妻お蓮の通説を覆す小説になると思う。探り当てた真実のお蓮像をぜひ共有していただきたい。

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新海竹太郎2013

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新海竹太郎(1868-1927)の名は山形県立図書館の 縣人文庫でみたのが最初でしょうか。そこにきれいな

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年

がかざってあります。わたしはそれを以前ネット検索で購入、手元もあります。表紙は汚染され、中の絵は虫喰いでしたが、ネット用の画像をとるには十分でした。細谷風翁、米山の水墨画をそこからとって公開しました。いまだにそれ以外にその絵をみることはできないようです。その書に掲載されている風翁先生小伝続きに引用しておきます。

新海竹太郎の詳細は、やはり

 後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店 1965 pp194-202

に詳しく、日本彫刻の歴史から竹太郎の血統についても詳述されている。十日町の竹太郎の家の前に細谷風翁の家があったと書いてある。(現在の十日町十字路角、「いなり食堂」のところと書いてあるが、「いなり食堂」本店は道路の拡張でなくなってしまい、キャッスルの中にはいったとあるから、そのへんなんでしょう。)

十日町の山形城三の丸跡の外側にある歌懸稲荷神社の銅像は甥の新海竹蔵作で、昭和5年有志により銅像が建てられたが、戦時中に供出、昭和30年に再建されたものです。

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April 24, 2013

2013年3月summary

Sunrise2013

Sunset20133

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Asahi20133

Ume2013

Hina20133

すでに桜の季節に入っているが、冬の終わりの3月は、目(というか眼瞼)が腫れて、ブログどころではない。まだ完全にはなおっていないが、毎日せっせと軟膏を塗っている。1年前の2−3月は、頭位変換性めまいに悩まされていたが、いままでなかった病気を自分でももらうようになり、だんだん年をとっていくと感じられる。

この冬は白鳥に何度もお目にかかったことが印象的でした。春を前にした三月は、何事もなくすぎていったが、ブログ更新だけが遅れてしまった。facebookに先にのせることもあり、速報は山形な日々のtumblr版にはやくのせています。ブログはあとでまとめに乗せる感じです。ラーメンは山形ラーメン(tumblr版)にのせています。

3月の写真はこんなもんです。朝焼け、夕焼けのきれいなところ。雪どけ水に増水した最上川。やっとのことで名もわからぬ野鳥の写真をとりました。紅梅は日当りのよいところではやく咲き、ことしもひな祭りのおひな様の写真もとりにいきました。

やまがたの歴史上の人物、20名ほど準備していますが、それなりのゆかりの写真をつけてのせたいので、まだまだです。

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April 06, 2013

山田音羽子2013

Otowa

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山田音羽子の略歴は、kotobankuに柴桂子氏の記述がある。引用しておく。

生年: 寛政7.1.29 (1795.3.19)
没年: 明治10.7.28 (1877)
江戸後期,出羽国山形藩士岡谷光広の娘。同藩士山田秀信の妻。弘化2(1845)年,藩主秋元志朝が上野国(群馬県)館林藩へ転封となった際,一藩をあげての旅立ちの準備,11日間の道中の様子を六十余枚の絵入り道中記として著している。転封の段取り,引っ越しの様子がよくわかり,茶店や宿屋の絵も貴重な資料である。また音羽子は和歌や狂歌もよくした。人物画なども多く残しているが,ほとんど独習であったと思われる。<参考文献>佃与次郎『山田音羽子お国替絵巻』
(柴桂子)

佃与次郎『山田音羽子お国替絵巻』 は現在ネット上に公開されている。
Yamada1

Yamada2

近代デジタルライブラリー 山田音羽子とお国替絵巻;
著者: 佃与次郎 著; 出版者: 梅本房吉;
出版年月日: 昭和5; 公開範囲: インターネット公開(保護期間満了)

同じ書籍の google e-book版

音羽会が制作した上記の2巻本を古本屋から以前に購入していたものが手元にある。日本史に名高い水野忠邦の天保の改革が失敗に終わると、水野家は山形に左遷。それまで長く山形の地にあった秋元家が館林に移動した。それが幕末の動乱が始まる前の弘化2(1845)年。水野家は貧乏くじを引き、秋元藩は運良く助かったともいえる。山田音羽子が書いた有名な「お国替絵巻」は最近後援会などでも取り上げられている。千歳公園にある遠山椿吉が建てた種痘の碑の文章を書いた石川直幹は音羽子の弟です。

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March 05, 2013

遠山椿吉2013

Toyama

山辺町出身の医師「遠山元長」について書かれた資料はあるか。また、遠山元長によって書かれた資料はあるか。

遠山元長は幕末の山辺の医師で、長沢理玄が種痘を山形に広げた時に、山形でその仕事を行った。遠山家は江戸時代に代々医師の家で、幕末の元長は五代目です。

この五代目遠山元長の息子3名も医師になり、遠山椿吉, 遠山矢十藤吉(宇留野)です。写真は下記の宇留野勝弥氏の本にのっているもので、上段左から、矢十、椿吉、藤吉です。下段の左から二番目の老人が元長です。女性たちは、左から てる、ひさ、なか(後藤)。この椿吉の姉なかが後藤嘉一の祖母です。

遠山椿吉は、明治期日本を代表する医学者、細菌学者で、北里柴三郎、野口英世、志賀潔などとならぶ人物です。以前調べた時には情報はほとんどなかったが、現在は、東京顕微鏡院が作ったりっぱなホームページがある(遠山椿吉記念館)。詳細な記事があるので私が追加するようなこともありません。山形県立図書館の資料も有用です。明治時代の東京の保健所の所長になりました。森鷗外は明治の陸軍軍医で最高地位にまでのぼりましたが、大きな間違いをおかし、多くの軍人を脚気で亡くしてしまいましたが、それに比しても公衆衛生にはたした遠山椿吉の役割は高く評価されてよいと思われる。

宇留野勝弥:顕微鏡界の祖 遠山椿吉 昭和43年
宇留野勝弥:遠山三兄弟 昭和42年
山崎光夫:日本の健康を創った男たち5,水道水、一億人に安全給水した男 (新潮新書 山崎光夫  健康の天才たち 新潮社 2007)

たいしたこと書いていないが、遠山椿吉の項が手間取った。

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February 27, 2013

水郷寺津沼公園ー源氏山吉太夫

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寺津という地名は全く記憶にありませんでしたが、山形新聞で、天童の沼に白鳥がきているという記事があり、検索して調べました。嶋地区から天童、谷地へぬける裏道をちょっとはいったところの公園でした。寺津は江戸時代に最上川舟運で大石田につぐにぎわいをみせた町だったそうです。今はひっそりとしていて、ちょっと素通りしてしまう公園ですが、目の前で白鳥にカルガモをみることができる場所でした。寿美子は「癒される」と言っていました。

山形出身の力士では、荘内出身の昭和の横綱柏戸が思い浮かぶが、江戸時代の天童出身の大関源氏山吉太夫のりっぱな銅像がありました。

源氏山 吉太夫(1786~1844)
【げんじやま】 大関。山形県天童市出身。1807(文化4)年に、富士ノ越の四股名で初土俵、1899(明治32)年に入幕。1814(文化11)年、29歳で入幕。1818(文化15)年、33歳で小結昇進。翌年に関脇昇進を果たし、弘前藩津軽侯のお抱えとなり、源氏山と改名。大関昇進となったのは、1825(文政8)年、40歳のときだった。
 当時は横綱制度が無く、大関は実質最高位。優勝5回の記録を残し、1828(文政11)年、43歳で引退。幕内成績は105勝41負6分14無勝負。二代目秀ノ山を襲名して後継育成に努めた。1844(天保15年)年、59歳で逝去。〔碑文年表を参考〕

 (所在地)山形県天童市 寺津沼
 (原作者)奈部雅昭
 (製作年)平成13年10月
 (像形態)立位像・片腕挙ポーズ形

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February 10, 2013

朝日の冬2013ー最上川の白鳥

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2010年の11月、朝日町のりんごまつりの日に初めて朝日町にいき、その後気に入って繰り返し朝日町をまわるようになったが、1月−2月は雪が多いだろうと、寿美子がいやがっていかなかったが、今回2月にもかかわらず天候に恵まれて、やっと冬の定点に行ってみた。朝日町ワインできいたところ、雪の量は少ないとのことでしたが、定点の八天橋は除雪されていましたが、歩道に雪が積もってなかなか撮影ポイントへ届かない。やっと撮って、やれやれと歩いてゆくと、白鳥が最上川の中でえさをあさっていた。七羽の行進。ダムのところにいるとは聞いていましたが、そこまで行かないで、カメラにおさめることができました。ついでに、Nikonの望遠レンズの新兵器のtestをおこなうことができました。これでわかったことは、ずっと使っていたOlympusのE-410でも十分な性能があるということでした。しばらく併用でいきます。

雪にうずもれた朝日町の産直には青物野菜はなく(当然か)、りんごの残りを買い込んで、朝日町ワインの例の赤の一升瓶を3本買いました。

昼は相変わらずの太郎亭。店のまえに大きな木彫りのおうむが去年の末から登場していました。

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February 06, 2013

最上義光2013ー振子の城

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今年の冬も去年に続き雪が多い。しかし昼の気温が高い時が多く、溶けてしまって、結局今2月になっても普通凍りついているところ、そうでもなく、霞城公園の冬景色をとろうと思っていたが、なかなかいい日がない。結局1月3日の新雪のときがいちばん雪景色らしい。これで四季がそろった

ことしは、山形の歴史上の人物をとりあげていきたいが、その最も重要人物は最上義光(1546-1614)です。ことしは没後400年にあたり、催し物もあるとか。まずはブログに霞城公園にある最上義光の記念碑をとってきました。

後藤嘉一氏が本をだしたときには、あれから350年だったんですね。その昭和の時代からさらに50年もたっている。(後藤嘉一 やまがた史上の人物 最上義光

数年前の大河ドラマで長谷堂合戦をやりましたが、本来その戦いに勝ち、徳川方の有力大名であったのですが、義光死後、内紛が絶えず江戸初期に早々に改易になってしまいます。そう、最初は、最上はどうしてなくなちゃったのだろうと思いました。

今はタブレット型携帯用パソコンというか、インターネット携帯端末がはやりですが、iPadは自宅で家族にとられているので、自分用にキンドルsuperwhiteを読書端末として、去年の末に購入。まず芥川龍之介の短編を読んでいたが、いつの間にか藤沢周平のキンドル版をどんどん買い込み、個人的に第2次藤沢周平ブームがきたような。その藤沢周平の短編の中に「振子の城」というのがあって、最上義光の死から、改易までの過程を簡潔に述べています。ついでに藤沢周平が山形市に下宿していたときのことも書いてあって興味深かった。

山形藩の系譜

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January 23, 2013

水野三郎右衛門元宣2ー豊烈神社

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水野三郎右衛門元宣(2007.4 桜の頃の記録)

いよいよ「八重の桜」がはじまった。戊辰戦争の会津、会津籠城戦をまともにとりあげるのは、はじめてかもしれない。山形藩もその戦乱にまきこまれ、その中で主としてはたらいたのが、水野家家老水野三郎右衛門元宣です。山形の幕末は、明治2年5月20日の長源寺での刑死で終わり、明治の世となった。

豊烈神社の水野元宣塑像説明板には、

水野元宣像の記
 水野三郎右エ門元宣は、天保十四年(1843)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。
明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運命は弱冠二十六才の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応四年(1868)春、薩長軍(官軍)は仙台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、庄内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。
 山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし間もなく各藩相ついで降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治二年(1869)五月二十日藩の責任を一身に負い二十七才を最期に長源寺庭において刑死した。
 明治維新当時の山形藩は五万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中で官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。明治維新改革後山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の街を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。
 元宣の遺徳を後世に伝えるため旧藩士を始め市民有志により明治三十四年(1901)銅像を建立したのであるが昭和十八年(1943)第二次世界大戦完遂のため供出されたので昭和二十一年(1946)に郷土の彫刻家服部午山の作による現在の塑像が再建されたのである。

と記載されている。

豊烈神社は、水野様を祀る神社で、その案内板には


豐烈神社(ほうれつじんじゃ)
  山形県山形市桜町7番47号
◇御祭神(説明板より)
水野忠元(豊烈霊神)、水野忠邦(英烈霊神)、八阪大神(素盞雄尊)、
稲荷大神(倉稲魂姫)、山ノ神(大山祗命)、明治維新殉難者二十四柱(山形藩)

◇由緒・沿革
文政四年(1821)
  遠江国浜松城主 水野忠邦公が藩租水野忠元公を城内に祀り、朝廷より豊烈霊神の称号を賜った。
弘化五年(1848)
  忠邦公の子忠精公山形移封に際し、山形城二の丸内に豊烈神社を遷座した。
明治三年(1870)
  忠精公の子忠弘公 近江国朝日村に移封の際、豊烈神社を山川(茨城県結城市)に遷座した。
明治十三年(1880)
 水野藩士勧請して、豊烈霊神様の御分霊を戴き、現在地に豊烈神社を建立して香澄町(旧三の丸地内)の氏神様とする。(現在氏子戸数約二千戸)
明治三十五年(1902)
水野三郎右衛門元宣の銅像建立。
明治四十一年(1908)
 神社庁令により、香澄町各所に鎮座していた八坂神社・稲荷神社・山神社を合祀する。大正二年(1913)
 山川の本社を、ここに遷座併合する。
大正十年(1921)
 水野藩中興の祖 水野忠邦公(英烈霊神)を合祀する。
昭和十八年(1943)
水野元宣銅像は戦争のため供出、昭和二十一年(1946)現在の塑像建立。
昭和三十年(1955)
 明治維新に際し山形市を戦火の災害から救った水野三郎右衛門元宣、山形防衛戦で戦死した大久保伝平知敬以下二十三柱を合祀する。

◇御祭神(説明板より)
水野忠元(豊烈霊神)水野忠邦(英烈霊神)八阪大神(素盞雄尊)稲荷大神(倉稲魂姫)山ノ神(大山祗命)明治維新殉難者24柱(山形藩)

◇打毬
 霞ヶ城最後の城主水野公が練武のため藩士に奨励あそばされたもので毎年10月6日の大祭には境内に馬場を設け紅白に分かれ古式豊かに行なわれる
  

と記載されている。この打毬が有名ですが、いまだ見たことはありません。毎年お祭りがおこなわれているようです。


山形藩、庄内藩など戊辰戦争時の山形の動きは、 

 後藤嘉一 やまがた明治零年 郁文堂書店  昭和35年

水野三郎右衛門元宣については

 後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店  昭和42年

に詳述されている。当時強大な財力、軍事力をもていた庄内藩、本当に最後の城を枕に討ち死に一歩手前までいった会津藩、そして、小藩で右往左往した山形藩、幕末は本当に学習の価値がある。

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January 15, 2013

種痘の碑ー長沢理玄

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千歳公園に人知れず「種痘の碑」が立っている。これは大正9年に遠山椿吉が再建したものである。もともとは、安政3年(1856)、長沢理玄の門人たちが、山形市片町本久寺に建てたものが明治14.5年頃、新道建設のときに壊されていたものを再建した。

長沢理玄については、
後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店  p48-53 の「長沢理玄」
の項に詳述されているが、そのもとになっている文献は
遠山椿吉 「長沢理玄」大正9年   ですが、これは現在
近代デジタルライブラリー 長沢理玄

で公開されている。これを以前途中まで入力していたが途中で止まっていました。

【山形・群馬で種痘の普及】長沢理玄(ながさわ・りげん)・山形/群馬の偉人

Rigen

石村 澄江 (著) 疱瘡長屋の名医―種痘に賭けた長沢理玄の生涯

は先日読了しましたが、より詳しく書かれています。以下長沢理玄について要約しておきます。

Shutou


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January 03, 2013

細谷風翁2013

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風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年. (県立図書館にかざってあるこの本、ネットで31500円で売っていた。

細谷風翁の書画tumblr.版
細谷米山の書画tumblr.版

細谷風翁についてもっとも詳しく記載された文献は、石川淳<諸国倚人傳>である。くわしくはこれを読んでいただきたい。石川淳の記述も現物をみれば理解できるというものです。山形県立図書館のhome pageにいくと風翁の文献リストがある。さらにもみじ公園と一貫清水橋ちかくに記念碑がたっているとのこと(と、書いたまま長い年月がたってしまった。)、そのうち調べてきます。すべての基本文献は新海竹太郎のこの記述と思われます。
風翁先生小伝−>以下に引用。
近代デジタルライブラリー - 細谷風翁遺墨展観録

細谷風翁について、現在われわれが知るすべは、石川淳の文章、後藤嘉一の「やまがた史上の人物」以外にない。山形には竹林が多く、細谷風翁は竹が好きだったらしい。今は竹林など町中にはみないが、周辺部でなごりの竹をみかける。

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December 31, 2012

もみじ公園2012

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京都の紅葉はネットでみていたが、11月の末であった。これにいきたいと思っても、普通の仕事をしているひとには無理がある。ことしは10月半ばにちょっとだけ京にいくことができたが、ほんの駆け足であった。写真の公開は来年になりそうです。近くにも紅葉はいくらでもあり、ただそれを見ようと思わなければ地元山形でも難しい。この山形の紅葉の名所「もみじ公園」の紅葉にきたのも2004年以来です。その2004年時の写真は昔のブログにまだ残っています。現在でも細谷風翁の検索ではtopにでてきます。こんなにもみじの落葉がいっぱいのときに訪問したのははじめてでした。


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December 30, 2012

政治的焦土からの復興ー達増拓也

◎ 政治的焦土からの復興
 2012年12月28日 : (日本一新の会。)


     日本一新の会・達増 拓也
            (岩手県知事)

平成24年12月の衆院選は、政治的な大災害のようだった。唐突な解散によって唐突に行われた総選挙は、有権者がどうすればよいかわからなかったという意味でも、民意が何を選んだのかよくわからないという意味でも、「決められない選挙」となった。集団的意志決定としての選挙が不全をきたした、荒涼たる政治的焦土が私たちの前に広がっている。

 まず、忘れてはならないのは、西松事件から陸山会裁判へと続いた「検察の暴走」がなければ、このような事態にはなっていないということである。「検察の暴走」が民主党政権を崩壊させ、大与党と与党補完勢力群からなる大政翼賛会的状況をもたらした。国民的な猛省が必要である。

 一方、「検察の暴走」をはね返せるほどに民主党がしっかりしていれば、やはりこうはならなかった。民主党政権の崩壊は民主党の自滅であることも真実である。「検察の暴走」に便乗して党内権力を掌握しようとし、消費税増税で国会の主導権を握ろうとした菅首相の邪道路線。その邪道路線を引き継ぎ、消費税増税と解散のセットを三党合意で約束し、消費増税以外にできることは解散だけ、という窮地に自らを追い込んだ野田首相。そのような党代表・首相を、党を挙げて選んだ民主党。大いなる自滅であった。

 ちなみに、菅・野田と続いた邪道路線を、マスコミがほめそやしていたことが思い出される。特に、消費税増税と「近いうち」解散をセットで約束した三党合意を、マスコミのほとんどが「『決められる政治』への一歩だ」と持ち上げていた。野田民主党がそれに気をよくしていたとしたら、今回の大自滅は、マスコミにまんまとだまされた面もあったということだ。

 それにしても、今回の野田首相による解散の決断は、天下の大愚行だった。大いなる自滅になったから愚かであるだけではなく、民意の集約としての選挙の役割をぐちゃぐちゃにして、日本の民主主義を大きく損なったという点でも愚かであった。

イギリスを始め、欧州の議院内閣制の国々では、首相の解散権を制限する傾向にある。やはり、「解散は首相の専権事項」などと言って、いつでも好きなときに解散できる、という考え方は改めなければならない。解散権は無制限であると解釈するからこそ、「いつでも解散できるのなら、今すぐ解散しろ」という野党の絶え間ない解散要求にも抵抗しにくくなる。「衆議院の解散は、国民の信を問うべきよほどの必要性がある場合に限る」という憲法慣習を確立すべきだろう。解散する以上は、何について信を問うのかはっきりさせ、争点を明確にして選挙をしなければならない。今回の選挙は、全くそうなっていなかった。

自民・公明は、「消費税率の引き上げは民主党の政権交代マニフェストの否定なのだから、あらためて国民の信を問え」と主張していた。そのロジックのままに消費税増税と解散をセットで実行すれば、政権交代の否定、民主党政権の否定を野田民主党が認めたことになる。民意を問うというより、ただただ自己を否定し、後事を自民・公明に託すための解散・総選挙になってしまった。タイミングについても、民主党関係者ですら虚を衝かれた唐突な解散で、第三極を混乱させてその結集を妨げ、一方で満を持して選挙に臨んだ自民・公明を圧倒的に有利にした。反消費税や脱原発を明確に主張する第三極が大結集に至らなかったことも、選挙の争点が明確にならなかった大きな原因である。師走の忙しさの中で、有権者がなかなか選挙に集中できなかったことも大きかった。

民意のありように即して言えば、第46回衆議院総選挙は、前回総選挙で政権交代に託された民意を引き継ぎながら、それに東日本大震災と原発事故で意識を高めた国民の民意を加えて、新しい日本のあるべき姿を決める選挙となるべきであった。反増税と、脱原発。それは、格差社会化や貧困問題の深刻化を防ぐセーフティネットの充実で地域社会を強くし、農林水産業を活かした地域経済の活性化と再生可能エネルギーの推進で地方から日本経済を再生させていく道である。

私はかねてから、日本に必要な改革の本質は、冷戦構造に過剰適応したしくみを変えることだと述べてきたが、今、さらに、「新自由主義的グローバリズム」への過剰適応傾向も含めて変えることが真の改革であると言わねばならないと思う。「新自由主義的グローバリズム」は、冷戦に勝利した西側的なものを徹底していく路線なのだが、グローバリズムと言いつつ冷戦構造の呪縛にとらわれている。リーマン・ショックで、それではだめなことが明らかになり、日本でも「新自由主義的グローバリズム」に「待った」をかけようとする民主党マニフェストが評価されて、政権交代が起きたのだった。

今回、民主党の大いなる自滅と、第三極勢力の混乱で、政治的大災害が生じ、それに日本未来の党も巻き込まれて、満を持していた自民・公明の大膨張に対し、日本未来の党は振るわなかった。しかし、日本未来の党の理念・政策こそ、本来、今回の選挙で民意の大いなる付託を受けるべきものだった。そうならなかったのは残念至極である。反省すべき点は多々あるが、大災害(野田首相によって引き起こされた人災だが・・)に襲われた中で、理念・政策の旗を高く掲げ、底堅い支持を獲得したことは、次につながると思う。つなげなければならない。

民意集約不全選挙となり、民意は国会の中よりもむしろ国会の外にある状況だ。様々な集会で声を上げる人々、インターネット上で議論する人々、筋を通す文化人・有識者、そして普通の生活者、等々、様々なつながりのネットワークを広げて、民意を形にする力とすべきだ。

その関連で、ネット世論とリアル政治の乖離についても一言。二年前の民主党代表選挙と同様の、いや、より深刻な、こんなはずではないという悲憤慷慨が、ネット上に広がっている。これは、ネット世論が、日本のあるべき姿を先取りし、先を行っているということである。リアル政治が、遅れている。

ネット世論がリアル政治を牽引していくしかけを、作らねばならない。ネットによる選挙運動解禁も、必要だと思う。ネット上のテキストや画像が、公職選挙法の今の解釈では許可されない「文書・図画」扱いなのだが、本来ネットは通信であり、電話と同様に自由化すべきなのだと思う。

焦土と化した日本政治を、復興しなければならない。復興のための力は、国会の中よりも、むしろ国会の外にある。特に、地方や、都会であっても地域コミュニティーのような所の、草の根の暮らしや仕事の現場に、日本政治復興のための力が宿っていると思う。それをていねいにつなげていけば、復興は必ずできる。今回、民意が日本を動かすような選挙にならなかったのは、解散の仕方が悪かったからであり、民意が悪くてこうなったのではない。日本国民の民意は決して悪くない。そこは信頼していいと思う。民意を大事にしていけば、日本の政治もきっと復興する。

追記
 ☆本号は無限拡散希望につき、転載許諾を必要としませんので、お取り扱いをよろしくお願い申し上げます。


元記事リンク:http://nipponissin1.blog136.fc2.com/blog-entry-221.html

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December 22, 2012

山形の四季2011-2012 summary

Shiki20121

Shiki20122

Shiki20123

Shiki20124

Shiki20125

Shiki20126

1年はあっという間に流れた。再び雪の季節になっています。
この1年を要約しておきましょう。

朝日のココロ
山形雪化粧
雪にうずもれた山形の冬
春を待つ
春は桜
山形の春
朝日の春
さくらんぼの季節
山形の夏、暑い
朝日町青りんごの季節
残暑の頃
朝日町の秋
山形の秋

朝日町の定点観測はほぼ1年やりました。朝日町の真冬には近ずけるかどうか。霞城公園は冬がまだです。夕焼け、朝焼けの四季の特徴はまだわからないので、来年も見ていきます。おおきな流れとしての四季は一応みたので、来年からは山形の四季3として、見方を少しかえていきましょう。


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