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May 2007

May 28, 2007

山形のあまいもの

Amai

Amai2

あんこのうまい店という話を宴会の時していたら、この2つの店を思い出しました。駅の東口にある板垣だんご屋さんと、緑町の有名なたいやき屋<わかば>です。このたいやきは有名でみなさん食べたことあると思います。たしか東京のわかばと関連があると聞いたことがあります。よくわかりませんが。板垣だんごやのほうは、あまり知られていないので、昼休みに職場にたくさん買っていったら喜ばれました。安いので。あの甘さは絶品です。甘すぎず、口になじみます。写真の中に見えていますね。夏場はお休みとか。ご注意を。

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May 27, 2007

山形県の誕生

Yam

山形新聞本社ビル、山形メディアタワー完成で、特集記事がでてますが、談話室の記述。

<現在の山形県が誕生したのは、1876年(明治9年)。それを伝える同年9月1日の山形新聞創刊号は和紙(半紙)8枚、2つおり16ページ、付録2ページ建てだった。「鶴岡、置賜両県を廃し山形県に合併」「三島通庸を山形県令に」が一、二面に。>

三島通庸がきたときから、山形県が始まります。ワッパ騒動まっさかりの頃です。
明治は、日本の夜明けとも言われますが、多くのひとは、暗黒時代のはじまりと考えています。幕末に民主的なことを夢見ていたものはほとんどつぶされ、薩長藩閥政治、帝国主義、やがて何千万人のひとを殺す第二次世界大戦までゆきます。江戸時代がもっとも平和な時代だったとか。

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May 25, 2007

介錯1-4

慶応元年8月にとび,年表でいうと

8月 新徴組小頭三村伊賀右衛門と組士馬場熊蔵と争闘す。
9月9日 三村、馬場両人切腹。

の部分をやっています。この次が有名な事件の、旗本斬りの後羽賀忠次、中村常右衛門、千葉雄太郎の3名切腹の場面。三勇士切腹。新徴組は、新撰組ほどはでではないですが、江戸では評判がよかったようです。この時期の新徴組に関する資料はどこからさがしてくるのでしょうか?やはり基本文献の小山松新徴組のようですが。その108ページから110ページに詳しく書いてあります。

三村伊賀右衛門は浪士組5番組にはいっていて浪士組名簿にのってます。

庄内藩 鶴ケ岡松を堅固に守るなり(「松」は、徳川家の意)
酒井左衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ケ岡
酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る
かたばみはうわばみよりも恐ろしい(かたばみは酒井家の紋所)

(以上小山松新徴組から)

さきに薩邸焼き討ちの考察を始めますか。

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May 22, 2007

家族

Aoba

同じ場所が5月ともなれば、こうかわります。

日曜日の朝日新聞に掲載された女優江角マキコさんの<家族>に関する手紙は、しばらくぶりに感激ものの話でした。他の新聞の記事にもなっています。もちろんあちこちのブログも反応しています。2007年現在の人の世は、個人の歴史なのだと思いました。現在幕末を扱っていますが、ちょっと昔には、政治の責任の取り方は、責任者たる武士が切腹することによってとりました。だからいろいろな話は感動を生みます。しかし、現代はどうでしょう。だれも責任をとりません。失政してもだれも責任をとりません。死ぬ必要などないのです。だから、現代は個人の歴史が感動を生むのです。江角さんが自分のことを手紙に書いた勇気は、驚くべきものです。

きょうはしばらくぶりの宴会で自分の赤い顔を公開しようかと思いましたが、日曜日の朝日新聞にのった江角さんの美しい顔をごらんください、と言って終わりにします。

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May 19, 2007

佐藤賢一,新徴組1-100

山形新聞連載 佐藤賢一 新徴組 第1回ー第100回 (2007.2.6-2007.5.19)

序章 壬生1-13
浪士組  1-9
御預かり 1-8
大試合 1-13
庄内藩 1-10
江戸市中取締 1-14
練兵 1-13
長州藩邸差押 1-14
近藤勇 1-6

文久3年浪士組東帰の直前からはなしがはじまって、清河暗殺、新徴組庄内藩預かり、江戸市中取り締まり開始、長州藩邸差押、元治元年9月、近藤勇東帰まですすみました。300−400回で、戊辰戦争終結でしょうか。---この小説山形の幕末学習にちょうどいいです。まったく。

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庄内藩が、江戸市中取り締まりを維持するのには、大変な金がかかります。以前に

佐藤三郎 庄内藩酒井家 東洋書院 1991年 2000円

を紹介しましたが、お殿様の立場からみたのが、この本ですが、

佐藤三郎 酒田の本間家 中央書院 1972年 1200円

は、いよいよ本間様の立場からの幕末庄内が書いてあります。天保の三方国替えから、戊辰戦争後の国替え阻止、そして庄内藩が明治になっても居座るのには、本間様の経済力が大きく働いている。日本一の大地主本間様の経済力がどんなものであったのか、想像を絶するものがあります。  で、さて会津が京にでるのにも金がかかるはずだが経済的back に誰かついていないかと思って調べたら、すぐでてきました。長崎の豪商<会津藩御用達・足立仁十郎>。これは、会津ものもずいぶん読みましたが、知らない名です。インターネットのおもしろさはこんなところにあります。会津の悲劇は、武士の視点だけでみているので登場人物も武士ばかり。農民や商人のことはほとんど見ていないのですね。この足立仁十郎なる人物は、明治になって斗南藩にまでついていっています。この人会津士魂にでてましたかね?記憶にないですが、もう1回くらい読んでみたいものです。

きょうちょっと仙台まで行ってきましたが、駅前の丸善で、柳美里のサイン会をやっていました。こども向けの童話をだしたんですね。サインはいらないのでお顔だけちょっと拝んで帰ってきました。

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May 16, 2007

近藤勇1-3

次の章は、元治元年9月の近藤勇東帰を利用して、新撰組再登場です。新撰組と新徴組を対比させてみていくつもりでしょうか。新撰組年表は、詳細に知られていますので、私の新徴組年表には重要なところだけ、いれておきます。
9月5日 近藤京出立
9月9日 江戸到着
9月30日 日野へ
10月11日 松本良順を訪問
10月15日 伊東をつれ江戸出立、藤堂は残る
10月27日 帰京
わたしの年表に
10月17日 酒井吉之丞了恒、幕命により庄内藩の壮士を指揮して水戸浪士真田帆之助、岩名昌之進の2名を討ち取る。了恒は岩名を「腰車切落シ」に仆(たお)したが、自らも左膝に負傷、二針縫う。功を賞されて白鞘刀一腰と白銀三枚を賜る。
という記述があり、出てくるかも。菅と松平はいずれ悪役になっていくはずですが、われらが吉之丞は、これは英雄です。到道博物館の庄内史話
の18、他藩の記録に見る戊辰戦争の荘内軍の項をお読みください。

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May 13, 2007

長州藩邸差押7-13

きょうのところで、庄内藩の佐幕派、改革派の関係について述べています。酒井吉之亟は改革派の方と思いますが、どちらも同じ庄内藩で差はないと言っています。にもかかわらず、戊辰戦争を前に改革派は全滅させられます。そこも重点的に書いてほしい。

わたしの学習は、ワッパ騒動が続いています。

佐藤誠朗  ワッパ騒動と自由民権  校倉書房  1981年  3000円

が決定版みたいです。菅、松平一派は、<御家禄派>と呼ばれ、「或る方面」と謎めいた書き方をして、戦後になっても、ワッパ騒動のことはタブーとされたことが明らかにされている。昭和50年の佐藤治助のワッパ一揆、同年刊行の鶴岡市史中巻の登場まで続いたそうです。これは庄内という土地に住んでいないとわからない問題なのかもしれません。

数日前の山形新聞夕刊に、高橋義夫が、<回天の門>について書いていた。清河君は庄内ならではの人物像であるそうな。菅実秀や大山庄大夫のことを、藤沢周平は本当にどのようにみていたのでしょうか?佐藤賢一の意見はこれからゆっくり聞けそうです。

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May 08, 2007

藤沢周平の幕末

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大林清 庄内士族 昭和20年 輝文堂書房

を一通り読了しました。ちょうど戊辰戦争が終わったところから始まり、松ケ岡開墾までを士族の立場から書いています。新徴組はむしろ悪役、じゃまするものたちです。菅はもちろんりっぱな人で、じゃまものは、森藤右衛門に、金井質直、本多充釐(いんり)兄弟。この金井、本多は丁卯の大獄でやられた方の改革派の方の生き残りだそうです。

佐藤治助 ワッパ一揆 東北農民の維新史 三省堂 1200円 昭和50年

の方は、農民からみているので、話は逆になります。話はリアルで、当時の状況が目に映るようです。新徴組を語るには、明治期の庄内の政治情勢、農民の動向、松ケ岡開墾にワッパ騒動まで書かないといけないので、このさとけん新徴組は、簡単には終わり得ないと思われます。

ワッパ一揆から、新徴組について書いた部分の引用。
<幕府は、倒幕の動きを抑える目的もあって、諸藩の浪士を集めて組を作り、禄を与えた。いま庄内藩に組み込まれた新徴組、新整組もその1つである。彼らは、幕末の嵐に乗って暴れ回った。放縦な気風が漲り、幕府は自ら作った組の処置に手をやいた。庄内藩は、江戸取締役を命ぜられるとともに、組の取扱いも委任された。薩摩邸焼討ち事件や戊辰戦争で、彼らは彼らなりに活躍した。しかし浪士組は一人一人考えも違う。三百年来の酒井藩士とは、おのずから異るものがあった。しょせんは他所者であり、足軽同様の扱いを受けた。だから彼らには不満があった。目に見えないところでそれは渦を巻いていたのだ。藩兵解体の時、藩は彼らが命に服せず、勝手な行動に出ることを恐れた。金峰山に三日三晩参籠させたのはそのためだった。世は変わっても、藩主への忠誠を誓約させたのである。それが、なかば強制であったから、開墾の激しい労働で揺れた。しかも将来に明るい見通しはない。いまは、居住や職業の自由が認められている。開墾の五十八日間は、とにかく不満を抑えて耐えた。しかし、冬になって開墾地に、町の糞尿を運ぶ段になって爆発したのだ。いまさら侍が町人の糞尿汲みなどできるか。>

脱走劇がはじまるまでの部分の説明です。

三島通庸が県令でくるまでは、庄内の実権を旧庄内藩のもの(松平に菅)がにぎり、旧体制のままに松ケ岡開墾を実施し、農民、新徴組を昔のままに扱ったので、おおきなひずみが生まれたようです。士族側からみれば、あたりまえのことが、当たり前でなくなったのが、明治です。

藤沢周平の幕末には、回天の門と雲奔るがありますが、肝腎な庄内の動きについては何も書いていません。義民が駆けるも書くくらいですから、庄内の農民の幕末維新にも、当然ワッパ騒動についても興味あったはずです。

藤沢周平と庄内  山形新聞社 ダイヤモンド社 1997 

の中に<書かれなかった大山庄太夫の一件>という章がある。また

続藤沢周平と庄内 山形新聞社 ダイヤモンド社 1999

には<丁卯の大獄  維新まで>という章があって、ここに藤沢周平と幕末について詳述されている。「十四人目の男」を読めとのことです。ここでも菅実秀の評価が問題となっています。同様に森藤右衛門の評価が庄内では分かれるとのこと。そのことはやっと手にいれた

佐藤治助 自由民権の先駆者 森藤右衛門  鶴岡書店  2002

に詳述されています。さとけん新徴組ではどのように扱われるでしょうか?物語はまだ序の口です。あと10年藤沢周平が生きていればと、思います。

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May 04, 2007

春-もみじ

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ちかくの春をひろってきました。もみじが春あかくなるのは山形にきて知りました。我が家の庭のもみじはすでに3本くらい枯れていますが(それだけ育てるのがむずかしい、すぐに虫がつきやすい)、がんばっているもみじの木はようやく赤みをましてきました。

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西郷南洲翁遺訓-長州藩邸差押2-6

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ここでいくさがはじまるわけではないが、状況説明が長々と続いています。まだ長州征伐もはじまっていないので、前半のクライマックス薩邸焼き討ちまでだいぶ時間があり、まだまだ江戸編の新徴組をやってもらはないと、知られざる新徴組は分かりません。

学習の方は、最新刊の

佐高信 西郷隆盛伝説 角川グループパブリッシング 2007 1890円

を八文字屋で発見。即購入しました。これは、夕刊フジに連載していたもので、一度朝日新聞山形版に佐高信が以前に記事を書いていました。西郷南洲翁遺訓を庄内藩の人々が編集していたという話から、西郷と庄内のつながり、幕末から西南戦争までの西郷の動きなど書いています。参考文献、登場人物も今やっているところと同じです。この西郷南洲翁遺訓は岩波文庫版があり目にしやすいですが、わたしは、西郷南洲顕彰会版をもっています。

犬塚又太郎 庄内と大西郷  致道博物館  平成10年

長谷川信夫 西郷先生と荘内 荘内南洲会 1998 1600円

も手元にありますが、同じ問題を扱っています。なぜ荘内藩は明治になっても、その権力を維持しえたのか(そしてワッパ騒動に新徴組の運命にも関係します)?まったく会津藩とは違う運命になっていきます。たとえば、会津最後の主席家老梶原平馬の運命を見ると戊辰戦争後斗南藩に流されたのを見届けた後、山川家の娘を離別して、恋人と北海道でまったく違う人生をおくる。荘内藩の中枢部の人、菅に松平は権力の中枢にいすわって明治初期の荘内を指揮し、実はその後もずっと庄内に影響力をもつらしい。ー農民、新徴組のひとびとからみれば、とんでもない西郷南洲翁遺訓なわけです。

藤沢周平の義民が駆けるで有名な天保の三方国替えをとめた農民は、戊辰戦後の国替えを止める力になりますが、これは作られたものということがわかってきます。そしてその後の天狗騒動、ワッパ騒動に続いていくようです。庄内の農民はたぶん他と比べれば豊かで、庄内藩はそれなりの善政はしていたのでしょうが、それだけではないようですね。

この件に関しては、黒田伝四郎 「庄内転封一揆乃解剖」「その出版の背景」鶴岡書店 を読む必要がある。

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