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January 2013

January 23, 2013

水野三郎右衛門元宣2ー豊烈神社

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水野三郎右衛門元宣(2007.4 桜の頃の記録)

いよいよ「八重の桜」がはじまった。戊辰戦争の会津、会津籠城戦をまともにとりあげるのは、はじめてかもしれない。山形藩もその戦乱にまきこまれ、その中で主としてはたらいたのが、水野家家老水野三郎右衛門元宣です。山形の幕末は、明治2年5月20日の長源寺での刑死で終わり、明治の世となった。

豊烈神社の水野元宣塑像説明板には、

水野元宣像の記
 水野三郎右エ門元宣は、天保十四年(1843)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。
明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運命は弱冠二十六才の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応四年(1868)春、薩長軍(官軍)は仙台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、庄内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。
 山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし間もなく各藩相ついで降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治二年(1869)五月二十日藩の責任を一身に負い二十七才を最期に長源寺庭において刑死した。
 明治維新当時の山形藩は五万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中で官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。明治維新改革後山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の街を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。
 元宣の遺徳を後世に伝えるため旧藩士を始め市民有志により明治三十四年(1901)銅像を建立したのであるが昭和十八年(1943)第二次世界大戦完遂のため供出されたので昭和二十一年(1946)に郷土の彫刻家服部午山の作による現在の塑像が再建されたのである。

と記載されている。

豊烈神社は、水野様を祀る神社で、その案内板には


豐烈神社(ほうれつじんじゃ)
  山形県山形市桜町7番47号
◇御祭神(説明板より)
水野忠元(豊烈霊神)、水野忠邦(英烈霊神)、八阪大神(素盞雄尊)、
稲荷大神(倉稲魂姫)、山ノ神(大山祗命)、明治維新殉難者二十四柱(山形藩)

◇由緒・沿革
文政四年(1821)
  遠江国浜松城主 水野忠邦公が藩租水野忠元公を城内に祀り、朝廷より豊烈霊神の称号を賜った。
弘化五年(1848)
  忠邦公の子忠精公山形移封に際し、山形城二の丸内に豊烈神社を遷座した。
明治三年(1870)
  忠精公の子忠弘公 近江国朝日村に移封の際、豊烈神社を山川(茨城県結城市)に遷座した。
明治十三年(1880)
 水野藩士勧請して、豊烈霊神様の御分霊を戴き、現在地に豊烈神社を建立して香澄町(旧三の丸地内)の氏神様とする。(現在氏子戸数約二千戸)
明治三十五年(1902)
水野三郎右衛門元宣の銅像建立。
明治四十一年(1908)
 神社庁令により、香澄町各所に鎮座していた八坂神社・稲荷神社・山神社を合祀する。大正二年(1913)
 山川の本社を、ここに遷座併合する。
大正十年(1921)
 水野藩中興の祖 水野忠邦公(英烈霊神)を合祀する。
昭和十八年(1943)
水野元宣銅像は戦争のため供出、昭和二十一年(1946)現在の塑像建立。
昭和三十年(1955)
 明治維新に際し山形市を戦火の災害から救った水野三郎右衛門元宣、山形防衛戦で戦死した大久保伝平知敬以下二十三柱を合祀する。

◇御祭神(説明板より)
水野忠元(豊烈霊神)水野忠邦(英烈霊神)八阪大神(素盞雄尊)稲荷大神(倉稲魂姫)山ノ神(大山祗命)明治維新殉難者24柱(山形藩)

◇打毬
 霞ヶ城最後の城主水野公が練武のため藩士に奨励あそばされたもので毎年10月6日の大祭には境内に馬場を設け紅白に分かれ古式豊かに行なわれる
  

と記載されている。この打毬が有名ですが、いまだ見たことはありません。毎年お祭りがおこなわれているようです。


山形藩、庄内藩など戊辰戦争時の山形の動きは、 

 後藤嘉一 やまがた明治零年 郁文堂書店  昭和35年

水野三郎右衛門元宣については

 後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店  昭和42年

に詳述されている。当時強大な財力、軍事力をもていた庄内藩、本当に最後の城を枕に討ち死に一歩手前までいった会津藩、そして、小藩で右往左往した山形藩、幕末は本当に学習の価値がある。

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January 15, 2013

種痘の碑ー長沢理玄

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千歳公園に人知れず「種痘の碑」が立っている。これは大正9年に遠山椿吉が再建したものである。もともとは、安政3年(1856)、長沢理玄の門人たちが、山形市片町本久寺に建てたものが明治14.5年頃、新道建設のときに壊されていたものを再建した。

長沢理玄については、
後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店  p48-53 の「長沢理玄」
の項に詳述されているが、そのもとになっている文献は
遠山椿吉 「長沢理玄」大正9年   ですが、これは現在
近代デジタルライブラリー 長沢理玄

で公開されている。これを以前途中まで入力していたが途中で止まっていました。

【山形・群馬で種痘の普及】長沢理玄(ながさわ・りげん)・山形/群馬の偉人

Rigen

石村 澄江 (著) 疱瘡長屋の名医―種痘に賭けた長沢理玄の生涯

は先日読了しましたが、より詳しく書かれています。以下長沢理玄について要約しておきます。

Shutou


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January 03, 2013

細谷風翁2013

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風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年. (県立図書館にかざってあるこの本、ネットで31500円で売っていた。

細谷風翁の書画tumblr.版
細谷米山の書画tumblr.版

細谷風翁についてもっとも詳しく記載された文献は、石川淳<諸国倚人傳>である。くわしくはこれを読んでいただきたい。石川淳の記述も現物をみれば理解できるというものです。山形県立図書館のhome pageにいくと風翁の文献リストがある。さらにもみじ公園と一貫清水橋ちかくに記念碑がたっているとのこと(と、書いたまま長い年月がたってしまった。)、そのうち調べてきます。すべての基本文献は新海竹太郎のこの記述と思われます。
風翁先生小伝−>以下に引用。
近代デジタルライブラリー - 細谷風翁遺墨展観録

細谷風翁について、現在われわれが知るすべは、石川淳の文章、後藤嘉一の「やまがた史上の人物」以外にない。山形には竹林が多く、細谷風翁は竹が好きだったらしい。今は竹林など町中にはみないが、周辺部でなごりの竹をみかける。

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