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January 15, 2013

種痘の碑ー長沢理玄

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千歳公園に人知れず「種痘の碑」が立っている。これは大正9年に遠山椿吉が再建したものである。もともとは、安政3年(1856)、長沢理玄の門人たちが、山形市片町本久寺に建てたものが明治14.5年頃、新道建設のときに壊されていたものを再建した。

長沢理玄については、
後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店  p48-53 の「長沢理玄」
の項に詳述されているが、そのもとになっている文献は
遠山椿吉 「長沢理玄」大正9年   ですが、これは現在
近代デジタルライブラリー 長沢理玄

で公開されている。これを以前途中まで入力していたが途中で止まっていました。

【山形・群馬で種痘の普及】長沢理玄(ながさわ・りげん)・山形/群馬の偉人

Rigen

石村 澄江 (著) 疱瘡長屋の名医―種痘に賭けた長沢理玄の生涯

は先日読了しましたが、より詳しく書かれています。以下長沢理玄について要約しておきます。

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文化12年(1815) 山形城下に生まれる。父 周玄は秋元藩藩医。
弘化2年(1845) 秋元藩は館林に国替えとなる。理玄はその後江戸にでて桑田立齊の門にはいり種痘の方法を学ぶ。
嘉永5年(1852)山形を訪問、種痘を広める。山形山辺の高弟に遠山椿吉の父、遠山元長がいる。
文久3年(1863)49才で死去。

遠山椿吉の長澤理玄(1)
長澤理玄

醫學博士 遠山椿吉

緒言

長澤理玄は實名を宣直といひ、秋元候の藩醫であった、秋元凉朝公が明和4年出羽の山形に封ぜられてより永朝久朝の2代を経、志朝公に至って弘化3年(2年の説もある)上州館林に移封された、理玄が秋元家在山形の此80年の末期より館林代に跨(またが)りて藩候に仕え、時恰も種牛痘伝来の秋に際し、身を献げて其(その)宣伝に勉められた、上野及出羽地方に同法実行の魁(さきがけ)をなした其(その)功績は没すべからず、確かに日本衛生史上に伝ふべきものであると思う。

1. 理玄の父
理玄の事を述ずる前に少しく長澤家の事を言ふの要がある、長澤家在山形の間は理玄の父周玄の代で、理玄は部屋住みであったらしい、予が父元長が師家の談をする時若先生と稱(とな)へしは理玄の事であった、周玄は實名宣寛といひ、漢法医家にして蘭法外科に長ぜられたものと見えた、野父の手記の内に、
『専ら漢法醫流を修し且(かつ)阿蘭陀外科紅毛あるーとゑんてれきせん傳の治術を学ぶ云々』
とある、理玄も此流派を傳へて外科家たりしことは後の野父に授けた傳書及其他の事蹟によって推測せられる、又周玄の外科家なりし事は左の岡谷繁實館林叢談中の一節を見ても知られる。
『藩の針醫盲人大澤瑞泉事故ありて睾丸を抜く掛り醫長澤周玄なり、周玄其睾丸を預りて格し置く、周玄宅は横町なり、瑞泉宅は七日町なり、其距離凡そ七八町もあるべし、周玄睾丸を土用干に出すと七日町に居る瑞泉悪寒がする、又之を高き柵に上ぐると瑞泉七日町にありて眩がする、實に不思議なることなりと言て語れり、心經の感ずるは左もあるべきことなりと言ふものあり、如何なるものにや』
一笑話の如くなれども周玄の外科生活を彷彿の中に見ることが出来る。

2. 理玄の種痘事業
理玄の父周玄は性温厚篤実なりしに理玄は之に肖ず、天資豪邁(ばい)闊達にして武を好み剣を愛し、常に朱鞘の長剣を帯びて居った(当時一般医師は帯刀せぬ)、而(しか)して理玄が一世の事業は実に種牛痘にあった、館林及山形城下の種痘は理玄によりて宣伝せられたのである、理玄が弘化3年まで山形城に居られた頃は何等の活動もなかった様であるが、同年館林に移って後ち、嘉永4年の頃より種痘の実行を創めた、此時は牛痘苗が日本に伝来してから2、3年である、理玄は江戸に出て、此法を伝へ得たるものと見へる、館林叢書及浮世の夢の一節に次の記事がある。
『嘉永年中の事なりし、一日繁實と岡谷荘三郎、長澤理玄と三人打寄りしことあり、誰人か言ひ出したりけん、前途三人の望みを申し見んとありしに、何れも然るべしとて、先ず第1に理玄曰く僕は醫なり今や牛痘のこと外国より渡りしことなれば人皆疑惑して種ゆる者なし、よりて日夜城内外を説諭して漸(ようや)くのことにて人皆種ゆることになりたり、この上は出羽山形に行き、人民を説諭して種痘をさせ、人命を救ひたきこと今世の望之に過ぎずと云ふ、荘三郎は曰く、僕は海外に押し渡り、外国の事情を知りて帰朝し、我国の為めに計らんこと終身の望なりと言ふ、繁實曰く僕は朝威の衰頽(すいたい)を見るに忍びず、願わくは朝威を輓回し天盃一滴の酒を賜るを得ば志願永終せんと云ふ、其後理玄は間もなく山形に赴き山形近傍を説諭し、遂に種痘のこと大に行はれ其效(効)を奏したるを以て、本人が菩提寺に其事を書したる碑を建て、帰れり、爰(ここ)に荘三郎亦(また)洋行せり、荘三郎父瑳磨介は頗(すこぶ)る経済に長じ、安政2年の震災によりては主として3年の大改革をなし、文武を擴(拡)張し、殖産のことに大に力を労せり、夙(つと)に攘夷のなすべからざるを知り、爰(ここ)に至り荘三郎をして之を米国に遣はせり、時に万延元年正月23日なり』
館林秋元藩の志士3人相寄りて壮園を語る当時の状見るが如し、之は慥(たしか)に嘉永4年の末であると思ふ、同5年に理玄は山形に来りて牛痘を実施し且つ其術を門人に伝へて居る、南條新六郎氏の記録に係る長澤宣直の事績中に左の事がある。
『嘉永の初泰西種痘の術我邦に伝はる痘苗江戸に達するや理玄之れを得館林に帰り、之を郷党の児童に施して人命を救わんと企図せり、然るに世人は未だ種痘の効果を知らず、却(かえっ)て危険視して之を忌避せり、理玄熱心に父兄に説けども之に応ぜざるのみならず、之を妨害せんとするものあり、理玄遂に言説の効なきを知り、道途に児童を要して強て之れに種痘したり、於是児童の父兄等怒りて彼を詰責し或いは追撃することありし、然し藩中又同志の人なきにあらずして現に執政岡村、岡谷両氏の如き各其意見を異にし、岡谷(瑳磨介)は熱心なる同意且(かつ)援助者にして自家の子女は率先種痘し範を示して他の忌避者を勧誘したり、且末子(南條新六郎)の如き早く七八回の種痘を受しめたり、之に反し岡村氏及び藩医杉本随玄等は有力なる反対者にして、盛んに忌憚(きたん)排斥し、其の子女等には勿論種痘を施すことなかりしかば、岡村氏の嗣子捨太郎は重症の天然痘に罹(かか)り辛うじて死を免れたれども甚だしき痘痕を残し、杉本氏も愛孫せつ女及び謹節両人をして険悪の痘瘡の為に生まれも付かぬ瘢痕の人とならしめたり』
時の執政及刀圭の道に当る人にして此の如し、況や其他の一般人をや、当時種痘が如何に世人の忌避せられたるやは推測に難からず、此の間に在りて理玄が俗論を排し衆勢に抗して奮闘邁進したるの結果、数年ならずして、遂に世は種痘の効験顕著なるを悟り、人々其子女を携へ来たりて進んで種痘を受くるに至りしといふ。
理玄は館林に於いて其の城内外の種痘稍(や)や成功するに及んで進んで舊(旧)領地出羽山形に其の余力を延ばさんとし、嘉永5年同地に至り盛んに其の効験を説き舊(旧)門人とともに之が普及に尽力した、(氏が山形に至りしは1回に止まらざりしが如し)、館林山形間は道程80余里那須の荒原あり、奥羽境界の峻嶺あり、之を徒歩跋渉(ばっしょう)せるの艱難(かんなん)容易ならず、旅中種々の奇談あり、或時は山中日暮れて一樵家を敲き、炉辺老媼(おう)の憫みに一夜を明かせし抔奇談少からざりし、豪毅の理玄は常に例の朱鞘の長刀を脇挟んで平然とたりといふ。
理玄は館林に在りて専心種痘普及に努力し、遂に一の種痘所を建設した、南條氏の記録に左の項がある。
『館林町字金山の東端に出城の如き一郭あり(約七反歩許)、之を長澤郭又は長澤長屋若しくは疱瘡長屋と称したり、思ふに此地は種痘所建設の為に下付せられたるものならん、此地東は浮島弁天より城沼を眺め南は青田を隔て、一面の桃林にして遙かに冨岳を望み眺望無類の場所也、而(しか)して長屋の位置は北側にて東西に亙(わた)り一棟四五戸其他一二棟なり、東南は廣濶なる余地を存せり、又其構造上の如き眺望佳絶の東南は入り口に属して玄関及び勝手口なり、客間座敷並びに住居等は悉(ことごと)く北面して何等の眺望もなく庭園僅かに二三間にして城の壕となり一帯の城築其の前に連なる、或人此の如き絶景を背後にして建造せられたるを詰れるに、理玄笑って曰ふ、眺望と種痘と何等の関係もまく互いに利するもなし、且(かつ)眺望も慣るれば更に珍しからず平凡の景となるものなり、之を勝手台所にすれば視る人之を惜しまざるなし、左てこそ景も活るなりと』

3. 種痘の碑
予が家(羽前山野辺村)の客間に石摺の扁額が掲げてあった、其の文は予が幼き記憶によれば、「凡愛子者必帰諸種牛痘」と隷書で二字五行の横形に書いた者で、焼き杉の額縁が付けてあったのを覚えている、此の額は明治の初年までは慥(たしか)にあった、其の後予が家は火災に逢った、此の額もいつしか見えずなった、多分火災のときに焼失したらしい、外に野父が一幅(ふく)の大石摺幅を蔵して居った、前の額面と此幅とは連続した大石碑の石摺であったのを、余りに大きくして普通の家の床の間に合わぬ為に篆(てん)額を切り離して掛け物に仕立てたのであると野父から聞いて居た、其の頃の石摺幅の原石は山形某所の寺院の門前に在った、予の朧ろなる記憶によれば其の寺は七日町の光明寺であったと思ふ、此の石碑こそ長澤理玄が出羽地方へ種痘を□へた記念碑とも、其の功績の頌(じゅ)徳碑とも兼ねては又種痘勧誘の碑とも謂(い)ふべきもので、予が長澤理玄を祖□せんとしたるも全く此の碑文に起ったのである。
前掲館林叢書の「本人が菩提寺に碑を建て、帰れり云々」とは此の事である、但(た)だ寺の名は何処にも見当らぬ。碑面は次の写真の如く実際竪七尺二寸幅二尺四寸の大なるもので、之に上部の篆(てん)額を併せたなら字面のみにて八尺以上で、全石一丈以上あったことが思はる、文字に一二不明の箇所もあれども判読すれば次の通りである。(写真参照)

碑文を見るに前述の通り記念、頌(じゅ)徳、勧誘を兼ねたものの様であるが、何人が之を建てたかは全く不明である、碑の背面にでも建設者が刻れてあったらうと思ふ、文面から察すれば多分理玄門下の人々と有志家の仕事に相違あるまいと思ふ。

(続)

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