15 posts categorized "やまがた史上の人物"

September 22, 2014

新海竹太郎「あゆみ」-山形市役所ロビー

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新海竹太郎2013


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November 05, 2013

2013年10月summary

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今年最高の朝焼け、夕焼けが見れた。夕焼けは10月4日。山形新聞にものっていた。ごらんの通り、月山が真っ赤になった。赤くなりすぎという感じもある。もっときれいに赤くなってもよい。朝焼けは、毎日確認できるわけではないので、何とも言えないが、この10月、2−3度きれいに赤くなった。一枚目の朝焼けは10月6日。駅ビルの大きさをみるとこの朝焼けの大きさがわかるとと思う。

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大菊は、毎年寿美子がやっていて、11月初めに咲くが、10月の台風シーズン、大きいのが2回来て、風でやられないように玄関に避難した。りっぱに育てるのはなかなかたいへんなようです。親ゆずりの技でがんばってやってくれています。

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10月12日(土)山形市の秋の祭り「よしあきフェスタ」(最上義光公没後四百年記念事業)のメイン行事が行われた。長谷堂合戦の再現(戦国時代劇「長谷堂合戦絵巻」)は仕事中で行けなかったが、午後の記念講演を聴いて、夜の霞城公園の松山能(薪能、優しい光に照らされた夜に観る能舞台)とそのあとのプロジェクションマッピングを見てきた。わたしの新型カメラのテストをかねていました。たいへん混んでいて、自分の位置を変えられず、たきびもとれず、マッピングの画面も全体像の見れるところにいなかったのが残念ですが、まーまーよくとれていました。オリンパスの古いのではこうはとれません。よしあきフェスタについては、また別に書きたい。
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朝日町も稲刈りの季節。蓮の沼の様子です。(続く)

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September 10, 2013

歓喜寺(清川)2013

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ゴールデンウイークに清川へ行った。清河八郎記念館は3回目くらいかと思う。歓喜寺は初めて。電車で行くと、陸の孤島みたいなところで、ひともタクシーもみかけず、電車はほんとに数えるくらいしかでていないので、無駄な時間が過ぎていく。八郎とお蓮の墓がならんであった。東京の伝通院にも同じようにならんであるそうだ。

もう9月になってしまいました。荘内日報の「お蓮」の連載も100回を越えています。今は井伊大老暗殺の場面をやっています。ーー藤沢周平を読んでいると視線は井伊大老のお供のものたちの運命に眼が初めていきました。もちろん唯ではすまかったのです。

清河八郎を書いた本は多い。ふるすぎるものは著作権も切れて電子化されて公開されていました。

山口忠助『幕末の奇傑贈正四位清河八郎』大正12年


大川周明 清河八郎 昭和2年
(大川周明全集 第4巻佐藤信淵・清河八郎・雄能先生伝他 大川周明全集刊行会、 昭37)
  その図版

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June 03, 2013

宝泉寺(上山)ー斉藤茂吉

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高校の教科書に齋藤茂吉「死にたまふ母」のいくつかの短歌がのっていた。覚えているのをあげておく。

みちのくの母のいのちを一目(ひとめ)見ん一目見んとぞただにいそげる

死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞ゆる

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

上山市金瓶の茂吉生家のならびにある宝泉寺には、茂吉の墓がある。これと、東京青山霊園、大石田乗船寺の3つお墓があるそうな。

今回の写真は2004年夏に撮影のもので現在とはすこし異るかもしれません。最近、そっちの方へ行っていない。


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May 31, 2013

山寺立石寺ー御開帳2013

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山寺の歴史はたいへん古く、知らないこともいっぱいあるでしょう(というか、今回はじめて知ることの多いこと多いこと...)。過去にしばしば上まで上りましたが、根本中堂のところは素通りで、秘仏に御開帳があるなんてことも全く知らずに暮らしていました。前回の御開帳が昭和25年、わたしは生まれていませんでした。その後昭和37年に根本中堂の解体修理がされているのです。秘仏なのにパンフレットに写真があるのは、この時とられた1枚のようです。一生に一度のことですからよく拝んできました。ものすごい数の人々がこの5月山寺で行列を作りました。そのうちまたもとにもどったらゆっくり登ってみましょう。

芭蕉の像はいたるところにありますが、山寺の像を写真にとったのははじめてです。
閑さや岩にしみ入る蝉の声

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May 29, 2013

光禅寺2ー最上義光

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2006年秋の光禅寺はこちら

連休前、専称寺から光禅寺をまわってきた。ちょうど桜散る頃であった。霞城公園に夢中でお寺の桜の様子をみておく必要があった。実は光禅寺の位置がよくわからず、自転車で少々迷ってしまった。こちらにはりっぱな庭園があるが、今回はうまく写真が取れなかった。おめあては、最上義光のお墓。ことしは、最上義光没後400年祭

案内板によると「当寺は慶長7年(1602)羽州57万石、山形城主の最上義光公が大石田黒滝、向川寺9世春林禅寺和尚を拝講して開創したものである。元は慶長寺と称してが元和年間、家親公の時代に光禅寺と改称した。当事の寺は今の長源寺(七日町)の地にあって、寺領250石の御朱印寺で堂塔伽藍完備の寺であったと云う。義光公逝去の後、孫の義俊公の代に至つて最上改易の変に遭い近江の国大森に移封された。元和8年10月、盤城の国、平(現在いわき市)より鳥居忠政公、山形城主に(24万石)なるに及んで、盤城の国より菩提所、長源寺を招致し、光禅寺の土地、建物を長源寺に使用せしめ、当寺を現在地に移転せしめたのである。その時、門前の三日町町民も一緒に移って来たので、元の町を元三日町と称して今日に至る。寺は、明治27年5月、市南の大火に遭い観音堂を残して全焼。貴重な宝物、古文書等を焼失した。寺域内には、最上家三代の墓(義光公、家親公、義俊公)と義光公に殉死した4家臣の墓がある。本堂裏手には遠州流「心字の池」の庭園がある。江戸前期頃作庭。市の名勝指定)他に、永和の板碑(市文化財指定)、観音堂及び輔堂等がある。梵鐘は元禄11年、京都洛陽三条の釜座、藤原国次の作である。」とある。

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専称寺ー駒姫

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駒姫は最上義光の娘で、文禄4年(1595)8月2日に秀次の他の妻妾子供らと共に三条河原にて処刑されました。この話はあまりにも有名です。墓は京都の三条河原 瑞泉寺にあります。 そのあたりを歩いたことありますが、そのときは全然そんなことは考えませんでした。機会があればいってみたいです。

辞世の句「罪を切る弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき

ここにある駒姫の墓はあたらしいものです。もっと桜か紅葉のきれいなときに写真をとりにこないといかん。ーー専称寺は2006年以来二回目です。

専称寺はいまでもお墓の分譲をしているそうです。うちは家のローンが終わってから、お墓の心配をはじめ、山寺とかここなどが話にのぼっています。お墓を買うのは、車を買うのといっしょで簡単ではありません。3.11以降お墓の需要は伸びていると聞きます。

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May 04, 2013

新海竹太郎2013

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新海竹太郎(1868-1927)の名は山形県立図書館の 縣人文庫でみたのが最初でしょうか。そこにきれいな

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年

がかざってあります。わたしはそれを以前ネット検索で購入、手元もあります。表紙は汚染され、中の絵は虫喰いでしたが、ネット用の画像をとるには十分でした。細谷風翁、米山の水墨画をそこからとって公開しました。いまだにそれ以外にその絵をみることはできないようです。その書に掲載されている風翁先生小伝続きに引用しておきます。

新海竹太郎の詳細は、やはり

 後藤嘉一 やまがた史上の人物 郁文堂書店 1965 pp194-202

に詳しく、日本彫刻の歴史から竹太郎の血統についても詳述されている。十日町の竹太郎の家の前に細谷風翁の家があったと書いてある。(現在の十日町十字路角、「いなり食堂」のところと書いてあるが、「いなり食堂」本店は道路の拡張でなくなってしまい、キャッスルの中にはいったとあるから、そのへんなんでしょう。)

十日町の山形城三の丸跡の外側にある歌懸稲荷神社の銅像は甥の新海竹蔵作で、昭和5年有志により銅像が建てられたが、戦時中に供出、昭和30年に再建されたものです。

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April 06, 2013

山田音羽子2013

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山田音羽子の略歴は、kotobankuに柴桂子氏の記述がある。引用しておく。

生年: 寛政7.1.29 (1795.3.19)
没年: 明治10.7.28 (1877)
江戸後期,出羽国山形藩士岡谷光広の娘。同藩士山田秀信の妻。弘化2(1845)年,藩主秋元志朝が上野国(群馬県)館林藩へ転封となった際,一藩をあげての旅立ちの準備,11日間の道中の様子を六十余枚の絵入り道中記として著している。転封の段取り,引っ越しの様子がよくわかり,茶店や宿屋の絵も貴重な資料である。また音羽子は和歌や狂歌もよくした。人物画なども多く残しているが,ほとんど独習であったと思われる。<参考文献>佃与次郎『山田音羽子お国替絵巻』
(柴桂子)

佃与次郎『山田音羽子お国替絵巻』 は現在ネット上に公開されている。
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近代デジタルライブラリー 山田音羽子とお国替絵巻;
著者: 佃与次郎 著; 出版者: 梅本房吉;
出版年月日: 昭和5; 公開範囲: インターネット公開(保護期間満了)

同じ書籍の google e-book版

音羽会が制作した上記の2巻本を古本屋から以前に購入していたものが手元にある。日本史に名高い水野忠邦の天保の改革が失敗に終わると、水野家は山形に左遷。それまで長く山形の地にあった秋元家が館林に移動した。それが幕末の動乱が始まる前の弘化2(1845)年。水野家は貧乏くじを引き、秋元藩は運良く助かったともいえる。山田音羽子が書いた有名な「お国替絵巻」は最近後援会などでも取り上げられている。千歳公園にある遠山椿吉が建てた種痘の碑の文章を書いた石川直幹は音羽子の弟です。

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March 05, 2013

遠山椿吉2013

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山辺町出身の医師「遠山元長」について書かれた資料はあるか。また、遠山元長によって書かれた資料はあるか。

遠山元長は幕末の山辺の医師で、長沢理玄が種痘を山形に広げた時に、山形でその仕事を行った。遠山家は江戸時代に代々医師の家で、幕末の元長は五代目です。

この五代目遠山元長の息子3名も医師になり、遠山椿吉, 遠山矢十藤吉(宇留野)です。写真は下記の宇留野勝弥氏の本にのっているもので、上段左から、矢十、椿吉、藤吉です。下段の左から二番目の老人が元長です。女性たちは、左から てる、ひさ、なか(後藤)。この椿吉の姉なかが後藤嘉一の祖母です。

遠山椿吉は、明治期日本を代表する医学者、細菌学者で、北里柴三郎、野口英世、志賀潔などとならぶ人物です。以前調べた時には情報はほとんどなかったが、現在は、東京顕微鏡院が作ったりっぱなホームページがある(遠山椿吉記念館)。詳細な記事があるので私が追加するようなこともありません。山形県立図書館の資料も有用です。明治時代の東京の保健所の所長になりました。森鷗外は明治の陸軍軍医で最高地位にまでのぼりましたが、大きな間違いをおかし、多くの軍人を脚気で亡くしてしまいましたが、それに比しても公衆衛生にはたした遠山椿吉の役割は高く評価されてよいと思われる。

宇留野勝弥:顕微鏡界の祖 遠山椿吉 昭和43年
宇留野勝弥:遠山三兄弟 昭和42年
山崎光夫:日本の健康を創った男たち5,水道水、一億人に安全給水した男 (新潮新書 山崎光夫  健康の天才たち 新潮社 2007)

たいしたこと書いていないが、遠山椿吉の項が手間取った。

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