21 posts categorized "山形戦国"

February 06, 2013

最上義光2013ー振子の城

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今年の冬も去年に続き雪が多い。しかし昼の気温が高い時が多く、溶けてしまって、結局今2月になっても普通凍りついているところ、そうでもなく、霞城公園の冬景色をとろうと思っていたが、なかなかいい日がない。結局1月3日の新雪のときがいちばん雪景色らしい。これで四季がそろった

ことしは、山形の歴史上の人物をとりあげていきたいが、その最も重要人物は最上義光(1546-1614)です。ことしは没後400年にあたり、催し物もあるとか。まずはブログに霞城公園にある最上義光の記念碑をとってきました。

後藤嘉一氏が本をだしたときには、あれから350年だったんですね。その昭和の時代からさらに50年もたっている。(後藤嘉一 やまがた史上の人物 最上義光

数年前の大河ドラマで長谷堂合戦をやりましたが、本来その戦いに勝ち、徳川方の有力大名であったのですが、義光死後、内紛が絶えず江戸初期に早々に改易になってしまいます。そう、最初は、最上はどうしてなくなちゃったのだろうと思いました。

今はタブレット型携帯用パソコンというか、インターネット携帯端末がはやりですが、iPadは自宅で家族にとられているので、自分用にキンドルsuperwhiteを読書端末として、去年の末に購入。まず芥川龍之介の短編を読んでいたが、いつの間にか藤沢周平のキンドル版をどんどん買い込み、個人的に第2次藤沢周平ブームがきたような。その藤沢周平の短編の中に「振子の城」というのがあって、最上義光の死から、改易までの過程を簡潔に述べています。ついでに藤沢周平が山形市に下宿していたときのことも書いてあって興味深かった。

山形藩の系譜

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September 04, 2011

美女いくさ2011秋4ー保科正之

テレビはほとんど見ないが、BSもわけのわからない番組がいっぱいあり、たまにみる。BSTBSで保科正之をやっていたのでみてみた。"名君"保科正之といわれるが、何が名君なのか全然知らなかった。徳川秀忠の隠し子で武田信玄の娘(見性院)に育てられ、伊那高遠城主となり、家光の代になり、山形藩、次いで会津藩に格上げされてゆく。

1582年の織田信長の武田征伐で、高遠城攻めがあり、このときが小説のはじまりになるのが池波正太郎の「真田太平記」。向井佐平次をお江が助け出すシーンからはじまるのです。印象深い。その信州伊那高遠が再び舞台となる。

そば切りの始まりはまちがいなく信州とのこと。それがどうやって山形までやってきたか。江戸時代の大名の国替えが大きく影響しているとのこと。1636年保科正之の山形転封と1622年の信濃松代から出羽鶴岡への酒井忠勝の転封とともに食も移動してきたようだ。

幕末会津藩が京都守護職になったのは、この保科正之の家訓があればこそ、とはよく知られた事実。時代は「フクシマ」へ。2年後の大河ドラマは新島八重。もし戦国でフクシマをやるとしたら、今の江の続編ともいうべき保科正之であったろう。これまでに

中村彰彦 保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中央公論新社  1995
中村彰彦 名君の碑 保科正之の生涯 文芸春秋社 2001

を読みました。名君の碑のなかでは江は、ただの嫉妬深い奥方様にしかすぎません。この名君の碑を読むと、保科正之の生涯は波瀾万丈、大河ドラマにふさわしいような話です。山形時代にも結構重要な事件がおこっています。ブログはまた山形史へもどっていきましょう。

静が保科正之を生むまでの期間は、大阪落城より前の話なので、大奥初期の江の姿が当然描かれていくのではないかと思いますが、どうなるのでしょう。以前同じ時期を扱った葵徳川三代は総出演(よく覚えていませんが)だったようです。


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September 01, 2009

直江兼続が山形へ攻めてくる2

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きのう驚くべき選挙結果がでて(2009年8月30日日曜日)、ついに民主党政権誕生。日本をよい方向へ導いてくれることを期待します。sign03

きのうの天地人は、選挙放送のため7時台にくりあがっていました。思った通りさっさと秀吉がなくなってしまったので、もう関ヶ原前夜になってしまいました。この時期上杉領は、会津、庄内、佐渡に分散しており、特殊な領有関係になっていることがわかります。庄内と会津をつなぐ道には敵がいて、朝日軍道の山道が成立している。まあいつも完全に カットされる東北の関ヶ原、今回はちゃんと合戦シーンも含め登場することを期待して見ています。会津のお城のCGが気に入っているのかよく使われています。

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August 26, 2009

直江兼続が山形へ攻めてくる1

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上杉が、会津へ転封になると、関ヶ原は目の前。会津のお城がでてきました。有名な会津若松城。このような天守閣はこの当時にもあったよう。幕末のイメージが浮かびます。この時、米沢に直江がはいります。小早川秀秋役の役者がクランクアップという記事が新聞に出て、どうやら9月末には、番組での関ヶ原になり、その先の物語もあるようです。と、すると、直江の山形攻めが大幅にはしょられることが心配です。

山形では、秋にイベントのピークがくるようで、最上義光歴史舘では、展示がえ、長谷堂合戦の資料に代わっていました。必見、2回いきました。

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山形 天地人シンポジウム 2009年9月13日
長谷堂天地人祭り
●月 日:9月19日(土)~22日(火) 
●会 場:長谷堂城跡公園、本沢公民館


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June 15, 2009

山形の戦国3-最上

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最上義光が山形戦国の中心。その歴史は最上義光歴史舘で売っているこの2冊の書物にわかりやすい。中心となるのは慶長出羽合戦です。現在のところ豊臣政権の誕生、景勝、兼続の上洛まできました。このあと上杉は周辺の平定、庄内進出をはかっていくが、そのあと、会津へ国替えさせられます。この時、米沢が直江のものになり、上杉領土が切り離されてしまい、朝日軍道の登場となり、間に最上が介在することになります。

この2回ほど、直江兼続の愛についてやっています。

この「愛」という文字の意味は、
① 「愛染明王」 又は 
②「愛宕権現」 という神様の名前に由来するという説。
③戦時中であっても、民をを想う「3.愛民」 の志で戦場に立つ
という、3つつの説があるとのこと。
前回お船と3番目の意味で話していたら、今回「愛染明王」だろうと福島正則につめよられていました。上京して、あいさつまいり、宴会ずけ、なるほどといったところ。

最上義光、前田慶治の登場待ちです。

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June 01, 2009

山形の戦国2ー伊達

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仙台藩ものがたり河北新報出版センター 1800円 2002
は、伊達氏の歴史を要約したわかりやすい書物です。昔仙台に長く住んでいましたが、伊達ものの本を購入したことも、史跡を訪問したこともありませんでした。時間はたくさんあったはずなのに。ーーーおそらく仙台にずっと住んでいても、仙台の歴史に興味はあまりもたなかったかもしれません。なぜか山形の歴史に魅力を感じます。秀吉の小田原せめ、そこへ伊達政宗があいさつにくる有名なシーンまで、伊達が会津、米沢にいます。

伊達政宗

昔大河で独眼竜政宗をやったときに伊達側からみたストーリーをやり、見ているはずですが、もちろん覚えていません。一時ニコニコ動画で一部みることができましたが、今は削除されています。うちではみることができないチャンネルでみることができるようですが、NHK本放送で大河の再放送も考えてほしいところです。

なかなか先へすすまないで、日がすぎるうち、本編には真田幸村登場。徳川の上田攻めもやりましたが、真田太平記を最近みなおしているせいか、やはりさえない。どうも重要な脇役に魅力がない。小沢問題で週刊朝日をめずらしく買っていますが、5月29日号に天地人をけなす記事がありました。ーーーー曰く「天地人」はこんなにヘンだ。「歴代大河でも最低ランクだ」ーーーーなんというかあまり脇役にも主人公にも魅力を感じない。でも直江兼続はすきなので、我慢してみてゆく。だってまだ政宗も最上義光もでてきていない、というか山形未だ登場せず。

長谷堂合戦のとき、伊達は山形まできて、日和見だったとか。

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May 19, 2009

山形の戦国1

戦国では、いつも1つの山場となる本能寺の変が終わりました。武田滅亡から1ヶ月。この1ヶ月が上杉にとってもっとも危ない時であったことがわかります。まさに四面楚歌。魚津城陥落の前日が本能寺でした。では、見方をかえて、わたしの主題山形はどうであったか。山形(出羽)は、庄内、最上、山形、置賜の4つにわかれます。山形は最上、置賜はまだ伊達です。庄内は武藤氏ですが、有力武将はいない状態。上杉と最上が勢力争いをしている。十五里ケ原の戦いがそのピークとなりますが、その後秀吉の采配で強制的な配置換えが行われるまで混沌としていて、参考になる文献も少ないようです。しかしその辺がわからないと、長谷堂の戦いの時の配置にいたる道すじがわからず、山形の歴史を学習するものにとっては困ることになるので、伊達、最上、上杉の動きを中心に、今大河をやっているとき、考察を進めていくことにします。

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May 06, 2009

畑谷城

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畑谷城は、直江兼続が山形にせめてきた時、最初の攻防のあったところで、守る江口五兵衛光清以下500名の最上軍が2日で全滅したところです。白鷹方面から山道を通って進軍したことがわかります。

現地でくばっていたパンフレットには、
<畑谷城攻防戦ー最上武士の面目をかけ、「義」に殉じた武将の戦い-
慶長5年(1600)旧暦9月11日、山形城攻略を目指した上杉勢の本軍は、直江兼続を総大将とじて米沢を出発した。そして、長井衛道を北進、白鷹丘陵を横断・東造して、畑谷城を攻撃した。畑谷城主江□五兵衛光清は、山形城主最上義光から、引き上げて山形城に合流するようにとの指令を受けたが、武将として逃げることを選ばず、その指令を断つた。また、江□を高く評価していた直江からは上杉勢への協力を勧められるが、それも断り、畑谷城南8B山麓部の鵜川をせき止め、水掘として備えを固めていた。上杉勢は本陣を片倉山に置き、正面攻撃は片倉山より下り、上郷前坂土木山・西の原方面に陣を構えた。一隊は前田慶次郎を隊長として馬牽原よリー本木峠を通つて簗沢方面に下り、北方から攻撃する態勢であつた。12曰から攻防戦が始まり、翌13日には水P5が破られたため、水堀の水も引き、二時(4時間)の攻防戦で畑谷城は落城した。直江は「 去十三曰最上領畑谷城乗崩撫切(皆殺し)申付、城主江□五兵衛父子共首五百余討捕候…」と書き送っている。>
とある。

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山形からは、門伝から国道17号線をずっと西に進みと山道にはいり、県民の森を越えたあたりにあります。山形からみる富神(とかみ)山がはるか下の方にちいさくみえるのでよく位置関係がわかります。こちら県民の森も山桜が満開(大沼のところ)水仙の花が路上に満開で連なっていました。


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畑谷城は、研究者による全国的観点から「戦国期ならではの遺構を良好に保つ三十の城址」に選出されている。標高549mの城山の山頂にあります。長谷堂よりはるかに急な坂を10分くらい歩くとつきます。山頂に記念碑がたっています。ここから山形方面の地上がみえるかと思いましたが、全然でした。入り口のところに長松寺という江口光清の墓のある寺があります。

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April 29, 2009

長谷堂2009春

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天地人はいよいよ豊臣政権から関ヶ原に向かってすすみますが、春とともに、再び長谷堂に行ってみました。公園が整備され、駐車場ができ、以前は人気もなかったところに人が散歩しています。山形市民からみれば、ちょっと自転車で暇つぶしコースでちょうどいいですが、よそから観光でくる人がわざわざ訪れるところかどうかはわかりませんが、徐々に有名な場所にかわってゆくのかもしれません。百目鬼温泉−>長谷堂−>ラーメン屋コースがいいかと思います。今注目の山形西地区ですね!!

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先日は、ここに示した写真をとりに八幡崎口からあがってみました。案内板が新しくなっていました。山形西地区の地図の案内板があり、パンフレットにもなっていました。この2つのパンフレットは長谷堂にいかないともらえないみたい。

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この長谷堂へいったのは4月のはじめ、本日は上杉祭りがはじまった米沢へ時間があったのでいきましたが、この件は次回書きます。

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June 15, 2008

菅沢の丘

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長谷堂は何回もいきましたが、対する直江本陣のある菅沢の丘へのぼりました。何かあるわけでなく、このしるしのみ。ちょうど百目鬼温泉のあたりが合戦場です。のこるは滝の山廃寺のみでしょうか。

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